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英語にも反射学習があった [英語]

英語塾「素読舎」の根石吉久さんが、英語指導を小3から受け付けている理由を書いてくれました。 ずっと以前、なんでも引用して良いですよと言われたので、引用させてもらいます。 すでに「素読舎」の掲示板で公開されているものですし、、。 どんぐり倶楽部の糸山先生が、反射学習はダメだダメだ、、思考しろ、、絵に描けと書いています。 反射学習は、算数の100ます計算とかだけだと思っていましたが、どうも英語にも反射学習があったようです。  

根石さんもそんな反射的な英語の学習を危惧されています。

素読舎の小学生英語では、「意味はあつかいません」、だから害が少ないのですね。

*** 引用開始 ***

素読舎という塾が出来るまで、私は家庭教師をやっていました。家庭教師といっても、一対一ではなく、ある家に3人ほど集まってもらい、3人を同時に見るというやり方でした。この3人が同時に英語のテストで90点以上(二人が100点)をとってきたので評判になり、同じ町の中で「うちでもやってくれ」という人が現れ、少しずつ回る家が増えていきました。回りきれなくなってきたので、「塾をやるから一箇所に集まってくれ」と言い、素読舎が発足しました。家庭教師の頃から、2,3人同時に見るという形だったので、塾の要素は最初からあったのですが、一つの塾に全員に集まってもらう形はほぼ自然発生的に生じました。
 私は、点をとらせるのがうまいということで評判になり塾を作ったのでした。
 対象は中学生でした。
 塾をやっているうちに、学校対策としては、小学校5,6年生からやると、小学生のうちに目がアルファベットという文字に慣れ、それを瞬時に音にすることに慣れておけるので、中学生になってからは、文法の理解がすんなりいくケースが多いことに気づき、小学校5,6年生も受けつけるようになりました。
 ぎりぎり小学校4年生からかな、という勘みたいなものがあり、小学校3年までの子どもに塾を使わせたいという希望があると、こちらから日本語の素読をやらせてくれとお願いして、日本語の素読をやりました。
 小学校5,6年生から、あるいはぎりぎり小学校4年生からという判断の元には、日本語の骨組みもまだ固まっていないうちから英語もないものだという考えがありましたが、そもそもは中学校を想定した学校対策として小学生も見るということにすぎませんでした。
 (余談ながら。大学生になって英語をやらなくなるケースが圧倒的に多かったために、学校英語や受験英語につきあうことに興味を失い、素読舎も小さくなりました。子どもに点をとらせることをやれば、今でも私はうまいはずだと思っています。ただし、以前よりもずっと遠回りさせますが・・・)

 最近は、小学校3年からでもいいかもしれないと思うようになっています。

 私の方法の原理は素読にありますので、最初から文字を媒介にします。文字を音にするというのが、そのもっとも基本の形ですので、3,4,5歳などの幼児を対象にしたレッスンはまったく考えていません。
 最初は小学5,6年生、次に4年生、最近になって3年生まで年齢を下げたということですが、小学校3年生でも始めていいと考えた根拠を書いておきたいと思います。
 根拠を一言で言えば、語学の対象としての言語は「死んでいる」からです。このことは、なかなか人にわかってもらえない基本事項の一つなのですが、これは自分に対して明らかにして以後、一度も手放したことのない私の考えの一つです。
 気の利いた言い回しなどをCDに吹き込んだものを「生きた英語」などと称している場合が世間には多いですが、原理的に言うならば、もしそれが語学の対象となったとたんに「死んだ英語」になるのです。
 語学とは、「死んだ英語」を死んだものとしてまっとうに扱うことです。例えば、同じ文を繰り返し何十回も言い続けるようなことは、それが語学だからこそ許されることであり、生活言語では、お経を唱えるような特殊なケースを除いてはまずありえないことです。意味と語がバラバラの状態から、それがくっついた状態に持ち込み、さらに熱を加えて、語とイメージが一体化するようにするというのも、語学の過程にのみ見られるもので、ネイティブ言語の獲得では、語とイメージが最初に合体します。その合体から時を経て、意味を人に説明できるようになるという順序があります。生活言語では、イメージが最初に発生し、その外化されたものとして意味が生じます。
 語学では、語と意味 → イメージ。
 生活言語(ネイティヴ言語)では、語とイメージ → 意味。
 意味とイメージの発生の順序が転倒しており、だから、語学的修得と生活言語の修得は成り立ちが根底から違っています。文法においても、これと同様のことが言えます。
 生きた言語と死んだ言語とが違うのと同時に、語、意味、イメージの関係性がまるで違っています。
 で、語学をやるのであれば、語学だからこそ許されることを思う存分にやることが肝要です。生活言語では決して許されないことを、徹底的にやるのが語学です。
 生活言語では許されないこととは、言語の死体をいじりまわすことでしょうか。

 「はいはい」
 「はい、は一度でいいの」
 この「一度でいい」という注意は、言語を死体とすることに対する非常に敏感な意識が発する声です。言語を死体とするもっとも簡単な方法は、同じ言い回しを繰り返すことです。で、日本語磁場では、「はいはい」と二度繰り返すだけで、注意されます。
 日本語磁場で、I've loved you all the time. を千回繰り返しても、誰も注意などしません。「おお、熱心に英語やってるな」とは言われるかもしれません。
 しかし、繰り返す以前に、すでに本性として、日本語磁場では英語は死んでいるのです。というより、それが語学の対象となったとたんに、英語は死んだものになります。それを「繰り返し」によって、さらに死なせる。死んでいるものをさらに死なせることによって、いったい何をしようというのでしょうか。私はこの過程を「逆葬式」と名付けたことがありますが、死んでいるものをことさらに自分の意識で死なせ続け、死んだものとして持ち続け、磁場において生き返らせるためです。

 死んだ言語とか、言語の死体というと薄気味の悪いことのように感じるかもしれませんが、死んだ言語なら、小学校3年生がやっても害はないというのが現在の私の考えです。死んだ言語だからこそ、子どもがいじっても害がないのです。
 これに対して、現在の日本に蔓延している幼児英会話の英語は、幻想としては「生きた英語」ですが、実体としては「なま生き=なま死に」=「死に損ない」です。

 死んだ言語を死んだ言語として持ち続けるだけなら、幼児がやっても害はない。意味もよくわからないまま、歌を覚えて歌っても別に害はありません。切実な言語としてでなく、当事者の言語としてでなく、歌を歌うように英語の文を唱えても別に害はありません。
 小学校3年からという区切りがあるのは、それ以前は日本語の文字に目をなじませるべきであろうと考えるからで、あくまでも目と文字の問題から必要になっている区切りです。もし、文字を介在させない方法が作れれば、あるいはそれ以上に大事なことですが、死んだ言語を死んだ状態のままに持ち続けるのであれば、幼児がやっても害はありません。
 ところが、死んだ言語を死んだ状態のまま持ち続けるということほど、世の幼児英会話などという世迷いごとで頭を支配されてしまった母親たちに理解されないことはありません。死んだ言語など、気味の悪いことを言わないでおくれ、うちの子には「生きた英語」だけが必要なんだから、というわけです。それが日本語の磁場においては立派な世迷いごとだとはいつまでたっても気づくことはありません。ただのアメリカパワー信仰なのに。
 英語という言語の磁場を欠如した場所(日本)では、英語はまず99パーセントまで、死んだ言語としてしかありえないという原理が、アメリカパワー信仰の母親にはわからないのです。なにしろ、信仰ですから、その信仰の外側をはじく力はすごいものがあります。
 先日、幼児英会話教室の先生をやっている女の人と話をしましたが、母親たちの間では、うちの子は5歳で What time is it? に答えられたとか、うちの子は4歳で、How old are you? に答えられるようになったとかの競争があるのだそうですが、子どもにしてみれば、ワッタイズィ とか言われたら、one から twelveを1から12に対応させて、現時刻を英単語で言えば褒められる、ハオルダヨとか言われたら、自分の歳の英語名を覚えて、それを言えば褒められるという反射をやらされているだけのことです。
 これは、英語で思考しているのではまったくなくて、反射をやらされているだけのことですから、原理的には「決まり文句をそのまま使う」という域を出ていないのですが、母親たちは子どもが英語で思考しているのだと勘違いしてうれしがるのです。

 もし、私が小学3年生に英語をやらせるなら、日本語を主言語として日本で生活している子どもである限り、英語で思考することなどは一切求めません。その代わりに、かなり高度な英文も、死んだ言語として死んだままに持ち続けるために、どんどん音声化し、音声化の完成としてインプットしていきます。
 「生きた言語」幻想など持っていた場合は、実に退屈なレッスンばかりが続きます。英語のレッスンより、忍耐力のレッスンになっていくでしょう。構わずに、退屈なことばかりを続けます。
 剣道をやる人の素振りみたいなものです。
 寺の坊さんの読経みたいなものです。
 退屈だとか、同じことの繰り返しだとか、生き生きとしていないとか、そんなことはどうでもいいことです。
 スタンダールの「恋愛論」というのを読んだことがないのですが、そこからの短い引用文をどこかで読んだことがあり、印象に残った文がありました。今、その文を引用できませんが、私なりに書き直して概要だけ言えば、

 どこかのなんとかという湖に木の枝を一本入れると、その枝に塩がびっしりと付き、枝の形の塩の固まりができる。

 それだけのことです。剣道をやる人が毎朝素振りを続けるのも、寺の坊さんが毎朝読経を続けるのも、意識という場に木の枝を一本置くためです。実戦という場で、実戦用に体が動かなければならないときに、普段の素振りが効いて、無駄な動きがなくなるとか、毎日唱えているお経を、さて改めて考えてみるときに、お経の本文は一本の枝としてすでに存在するので、考えに集中できるとかという効果が生じます。
 スタンダールは、まるで違うことを言うために、なんとかという湖とか木の枝とか言ったのだろうと思いますが、私はまるで簡潔な語学論=練習論を読んだように思ったことを覚えています。

 で、剣道をやる人の素振りのようなもの、寺の坊さんの読経のようなものとして英語を始めるのであれば、小学校3年くらいからやってもまったく構わないと考えるに至ったということです。

 あらゆる幼児英語、小学生英語論議から欠けているのは、「原理としての素読」です。
 死んだ言語を死んだ言語として持ち続ける「準備論」です。
 一種の「百年の計」が欠けているのです。

 花が枯れるとわかっている場所で、種をまいて芽を出させるべきではありません。
 種を種のままに持ち続けさせるべきです。(=死んだ言語を死んだままに)
 磁場に渡って、種を蒔き、植物体を育て、花を咲かせるべきです。
 英語を使うようになるための準備を長い時間に渡って子どもにさせるのであれば、「原理としての素読」を外してはことごとく失敗するでしょう。

 日本の幼児英語など、喩えるならば、切り花です。
 やがてしおれるだけの、根のないものです。
 実を結ぶこともありません。


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ram

なるほどです。 
我が家は、キッズ英語を退会しました。 心残りが無かったというか、、迷いが無かったのは、ここで勉強をさせて頂いたおかげだと思います。(まだまだ勉強したとは言い難いですが^^;)この子にはまだ早いと判断しました。

<回りきれなくなってきたので、「塾をやるから一箇所に集まってくれ」と言い、素読舎が発足しました。>
要望から産まれた塾 というのが素晴らしいですね。 
by ram (2007-06-05 08:11) 

yoshi

ramさんすごい! 読んでくれたのですか? 根石さんの文章は「死体」とかね、、喩語が怖いんですよね(笑)。 「生きる」とか書いた方が、生徒が集まるのにね~と、友人と話しております。 商売と無縁な人だと思いますが、もっている理論は本物です。 このお教室は応援したくなっちゃうんですよね。 根石さんの毒舌が、小気味よいのだと思います。 お孫さんには、「どんぐり問題」をやらせてあげてください。 語学獲得の基礎ができます。 糸山先生もすごいんですよ。
by yoshi (2007-06-05 23:41) 

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